Someday
高校生になった。
でも何も変わらない。
泡立つようなあの高揚はとうの昔になくなってしまって、ただの日常に笙子は埋没していく。
あの人は、今日も変わらず魅力的な被写体を求めて飛び回っているらしい。
高等部で、いちばん興味をひかれている人。
……武嶋蔦子
笙子は昨年度のバレンタインに偶然彼女と知り合った。不思議なくらい心にすっと入ってくる人で、笙子は苦手な筈の写真を許した。
許すどころではない。
撮ってほしいと明確に望んだ。
あれから入学式なんかでカメラをむけられることがあったけれど、逃げてしまった。一緒に撮ろうと言ってくれた友達の誘いも断ってしまった。
少しは変われたような気がしていたのに。
蔦子さんのおかげで、一体何が問題なのかはわかった。でも中々改善はできない。相変わらず私は他人にどう見られているか気になって仕方がないのだ。
だから蔦子さんに会うのは余計に抵抗があった。
一度しか会ったことがないけれど、私は武嶋蔦子という人に好意を持っていたから。
もっと話してみたい。
今度は蔦子さんのことを聞きたい。
何度も会いに行こうって足をむけてみるのに、どうしても進むことができない。
こわかった。
変わらないままの私で会うこと。
中学生だったことを隠していること。
ひっかかって、仕方なくて、足を止めてしまう。
会いたいという意思をしぼめようとする。
日に日に積もる気持ちは、薄まることなんてなくて、強くなる一方で、私を困らせる。
でもいつか会える。
いつか、私はまだ見ぬ未来に希望をかけていた。
「蔦子さん、まだその写真渡せてなかったんだ」
祐巳さんの言葉で現実に舞い戻る。未と書かれた封筒の中身を私は久しぶりに開けて見ていた。
良い写真だと思う。絵になっている。
あの時も目の前にいた祐巳さんは「いつか」と言って私を安心させてくれたけど、こうして見ていると早く渡してあげたいという気持ちが湧いてくる。
あなたはこんなに素敵に笑っているんだよ、と
早く教えてあげたい。
いつかほんとに会えるだろうか。
「ねぇ、蔦子さん。それもう一度見せてもらえない?」
「どうぞ」
祐巳さんはじっと写真に見入っている。写真の彼女は子供の頃モデルをしていたというだけあって、愛らしい顔をしている。妹にでもする気か?祐巳さんて美形キラーだし、などと蔦子は考える。
何かが疼く音がした。
気のせいだろう。
「あのね、私この子見たかもしれない」
祐巳さんが神妙な顔で言った。
「あら、ほんと?」
「でも変だよね、おかしいよね…」
「おかしいって祐巳さんの百面相くらい?」
独り言を唱え始める祐巳さんをちょっとからかってみる。
「もう!蔦子さんたら。そんなこと言う人には教えてあげません」
すねられてしまった。相変わらず表情豊かでおもしろい。
「嘘、うそ。で、何がおかしいの?」
むーっとした顔をしながらも祐巳さんは答えてくれた。
「1年生の教室で見た気がするの」
「なるほど、それは確かに」
私は昨年度のバレンタイン企画時に制服を身につけた彼女と会っているのだ。
「留年とか?病気だったとか…」
「それならバレンタインに学校に来るかね」
そうだよねぇと祐巳さんがつぶやく。
「あ!もしかしてイベントのために来て、思い出作りしてたのかも」
ぴかーっと頭の上に電球が光っているみたいだ。
しかし…
「うーん…そんな子ならむしろすぐ名前が割れたと思うんだけどなぁ」
祐巳さんと私は2人、写真を前にして額を合わせていた。
笙子は1人、図書館でレポートを書いていた。
別にひとりで勉強するのが好きだってわけじゃないけれど、ガリガリと何かをやっているように見られるのは今もやっぱり苦手。
決して静かなところが好きだとか、そういうことじゃない。
お姉ちゃんは好きなんだろうなって思う。聞いたことはないけど。
蔦子さんはどうだろう。あの人の回りはいつも静かな気がする。にぎわいを見つめながら、いつも回りと乖離しているように思えた。なんて蔦子さんのこと何にも知らないくせに、想像してしまったりする。そろそろ帰ろうと笙子は道具をかたして、席を立った。
昇降口へと歩いていくと、前からシスターが来るのが見えた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう…あら?あなた…」
何だろう?
もしかしてまたクリーニングのタグがついているんだろうか?
「内藤克美さんの妹さんの笙子さん?」
「はい…」
なぜ知っているんだろう。
「内藤さん…いえ克美さんにはね、卒業近くになってからだけど、仕事のお手伝いをして頂いていたの」
驚いた、お姉ちゃんがそんなことをしていたなんて。
「ご自分から何か手伝えることはありませんか?っていらっしゃって…何度もお世話になったわ」
お姉ちゃんは合理主義で、無駄なことなんて絶対しない人だったのに…
笙子の中の姉像には、全く合致しなかった。
「その時にあなたのことを聞いたの。聞いていた通りだったわ」
「そうなんですか、私ちっとも知らなくて」
お姉ちゃんが私のことを…
一体何を話したんだろう、ふらふらしてて、心配だとかそんなことだろうか。
「あなたのお姉さんはね、自分のやってきたことは間違ってないと思ってる。これからもそれを証明するために、生きていく。とおっしゃってました」
なるほど、お姉ちゃんらしいと思う。さらにシスターは続ける。
「でもあることを経験して少し寄り道してみたくなった、けれど私には方法がなかった。だからお手伝いなんてしているのだと思います。と」
「なんだか失礼を申し上げたようですね」
いえ、そんなことないわとシスターは笑ってくれた。
「人は今しか生きられないから、そう考えた時に初めて妹の生き方を評価しようと思えた。妹は私とは違う方法で悔いなく生きているんだって、わかりましたとお手伝いの最後の日に言っておられました」
…私は、心から驚いて、心から
うれしかった。
そして大事なことに気がついた。
「祐巳さん、帰らない?」
「帰ろっか、ごめんね、蔦子さん。混乱させて」
「ううん、教えてくれたんだもの。有り難いよ」
あれから私と祐巳さんは、ふたりで謎の少女について話していた。まぁ祐巳さんのかなり無理な推理に、私がつっこんでいたという方が正確か。
でも祐巳さんにはほんとに感謝している。人のために一生懸命になれるのは、祐巳さんの立派な才能のひとつだと思う。
1年生の教室を1度見に行ってみようか…、早い方がいいだろうか…
「ねぇ蔦子さん、今度一緒に探しに行こうよ」
昇降口で靴をはきながら祐巳さんは言う。
「そうね…でも探していいのかしら」
「どうして?撮ってほしいって頼まれたのに」
心底不思議だという顔をして祐巳さんは私を見ている。
「あっちはさ、私のこと知ってるみたいだったけど、会いに来ないってことは何か理由があるかもしれないから。むやみに探すのは良くないかなって、会えるのを待ってるくらいがいいんじゃないかって気がしてね」
「うーん、でも〜でも〜そのバレンタインの子は蔦子さんに撮ってほしいって」
祐巳さんは反論を試みようとしていたが、言葉になっていなかった。
「あれは社交辞令だったのかもね、リップサービス」
「違います!あれは本当に、私の本当のきもちです」
かなり大きな声だったけど、聞き覚えがある声だ。
ふりむくとあの、
謎の少女が立っていた。
シスターに御礼を言って、再び歩き出した。心の霧が晴れて、私のすべきことがはっきりした。
昇降口に着くと、喋り声がしていた。こんな中途半端な時間に誰だろうか。
かなりクリアに聞こえてくる。
「あっちはさ、私のこと知ってるみたいだったけど、会いに来ないってことは何か理由があるかもしれないから。むやみに探すのは良くないかなって、会えるのを待ってるくらいがいいんじゃないかって気がしてね」
!…蔦子さんの声だ。
もしかしてこれ、私の話?
「うーん、でも〜でも〜そのバレンタインの子は蔦子さんに撮ってほしいって」
やっぱり私のことみたいだ。気にしていてくれたんだ…ごめんね、蔦子さん。
決心したけれど中々出ていけない。心の準備が…まだ…
だめだ、これじゃ。
いつか、
なんて待っていてもやって来ないんだ。
やってくるのは、あっという間に去ってしまう、
今。
「あれは社交辞令だったのかもね、リップサービス」
違う。そんなんじゃない。私はほんとに…
あなたに…
「違います!あれは本当に、私の本当のきもちです」
笙子は思わず口にした。大きな声で自分でも驚いた。
「あなた…ショウコさん?」
「…はい」
蔦子と笙子は呆然とお互いを見ていた。
祐巳は展開についていけず、これまたぼーっとしている。
「ひさしぶりね、私のこと覚えていてくれたのね」
「忘れるはずありません、約束しました」
蔦子は祐巳の肩を叩いた。
「ごめん。先に帰っていて、埋め合わせは必ずするから」
「あ!うん。気にしないで。じゃあね」
祐巳はあわあわとせわしなく、校舎から出て行った。何故祐巳が慌てているんだろうと蔦子は苦笑した。
そして鞄の中から、例の写真をとりだす。
未の字が目に入った。そうか、女偏が入ると「妹」だな、なんて蔦子の頭に浮かんだ。
「これ、約束の品」
「もしかして写真…ですか」
「そう」
「ありがとうございます」
笙子は大事に封筒をしまった。
「中身、確認しなくていいの?」
蔦子さんは心配そうに鞄を見ている。
「蔦子さんが撮ってくれたものなら、良いに決まってます」
笙子が自信満々に答えると、蔦子は笑った。
「あの、蔦子さん、また私と会ってくれますか?」
笙子は笑う蔦子に聞いた。不安だった。
笙子は、今や写真以上に蔦子との繋がりを求めていた。
蔦子はにっこりと笙子に向かって笑いかけて来た。今までのおかしそうな笑いではなく、どこか人を安心させるような笑みだった。
「あなたの名前を教えてくれない?フルネームで」
その返答は確かなイエス。
「内藤、内藤笙子です」
「内藤笙子さんね、これからよろしく」
蔦子の手が差し出されて、笙子はその手をしっかりと握った。
遠くに見えた
いつか、を
やっと越えて、
2人の刻はこれから始まる。
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