いつか問われる(1)

 

 

 

「何してるの、聖」

蓉子は自分でも驚くほどの冷たい声を発した。

漂っていた妖しく濃密な空気が凍る。

物陰から出てきた少女は、胸元を乱し、タイを翻して走り去った。

顔は見えなかった。

けれど、華奢な身体に、長い美しいストレートヘア。

誰かを思わせる容姿。

またか、と蓉子は思う。

「何、蓉子?無粋な女は嫌われるよ」

依然その硬い態度を崩さない蓉子に対峙しているにも関わらず、濃

密な空気の主はそのままの淫靡な空気をまとって現れた。

「ここは学校だってわかっていて?」

「そう、迷える子羊が集いし園。子羊には温もりが必要なの」

「…馬鹿なこといわないで」

私と聖はこの春でついに最上級生になった。

薔薇さまの名をいただき、山百合会を引っ張っていくところまで来てしま

ったのだ。

正直参っていると言っていい。江利子は相変わらずのマイペースっぷ

りで仕事はやってくれるけどそれ以上のことはしてくれない。しかし

任せた仕事は誰より早く的確にこなしてくるのだからあまり文句を言

うのも何か違うだろう。

 

何より問題なのは、この目の前で自暴自棄にも見える笑いを浮かべて

いる人間である。

佐藤聖。

昨年大切な、おそらく自分の半身とも思っていたであろう人を失った。

 

溺れる様に彼女にのめりこんでいった聖を、私は止められなかった。

とめなければと思っている内に、自分の気持ちに気づかされたのだが、

私の気持ちなんか放っておくしかないほど、聖は危ない状況にあった。

私は聖を救えなかった。

ただから回りして、むしろ聖を傷つけたに違いない。

負い目、一言で言えばそれだ。

私は純粋な恋愛感情と同様の重さでそれを抱えている。何でこんな風に

なってしまったのか自分でもわからない。あの時はあれが私のせいいっ

ぱいで、そうするよりなかったのだけど、こうして胸を今も痛めるのは

やってあげたかったことがあとから溢れてきて仕方が無いからだ。

ぼろぼろになった聖を救い出したのは、聖のお姉さま。

聖の前に「白薔薇さま」と呼ばれていた人だ。

羨ましくなるほど聖の扱いがうまくて、どこかで私はこの人にすら嫉妬

していた。ただそれ以上に尊敬できる人でもあって、直接の妹でもない

私のも本当に色んな事を教えて下さった。私が知る人物の中でもこれ以

上頼れる人はいないと思える。

しかし、その人ももういない。

あの方が卒業された時、次は私が聖を支えていきたいと思った。けれど

それは無理だったらしい。

春休みが終わり、新学期が始まった時に見た聖は痛々しいとしか言えな

い様子に戻っていた。聖のお姉さまがお嘆きになるだろう程に。

どうしようかと悩んでいるうちに、聖はやたらに気分が高揚している時

があることに気づいた。

理由が全く解らず、しばらく様子を窺っていたら妙な噂が蓉子の耳に飛

び込んで来た。

『白薔薇さまが一部の生徒を弄んでいる』というものだ。

蓉子は我が耳を疑った。

聖は確かに軟派なところもあるが基本的には神経質なほどまじめなのだ。

だからよく追い詰められてしまう。聖がそんなことしているなんて蓉子は

信じられなかった。

けれど、あの聖の浮き沈みの激しさが引っかかった。

そして…ある日、目撃した。

明らかにそういった行為に溺れていることが解った。

目の前が真っ暗になる、という経験を私は初めてした。

そして、私が山百合会の人脈を駆使して、聖の行状を調べ上げた。

正しいことをしたなんて思っていない。

ただ夢中だった。

黙っていられなかった。

私は、ひどく冷たく、錯乱していたにちがいない。

そして今日、我慢できずに現場に踏み込んでしまうに至った。

「聖、どうしてこんなことするの?」

「こんなことって…どんなこと?」

にやっと愉しげに笑う聖。

私は不覚にも顔を赤らめてしまった。

「こんなことって何?教えて欲しいなぁ、紅薔薇さまのその麗しいくちびるで」

調子付いた聖はこれでもかと私を責める。

「怒っているのね」

私はその質問には答えず、できるだけ冷静さを取り戻そうと努める。

「怒ってないよ、紅薔薇さまはたいへんねぇ、こんなお荷物な白薔薇さま

がいるから」

わからない、悲しいほどに聖の気持ちが見えない。

そして、私の気持ちは…聖には伝わらない。

出会ってから、ずっと聖の近くにいたつもりだったのに。

「そんなこと思ってない。あなたは…私のたいせつな…」

「もういいよ、蓉子。私行くから」

私の言葉など聖の心の片隅にも残らないのだろうか?

だからこんな風に聖は私にそっけないのだろうか?

私はひどく儚い聖の後ろ姿を…ただ黙って見送った。

彼女を引き止める術も、覚悟も、ない。

どこまでも優等生の私には……

くやしかった、どうすればいいのか。

答えはいつだって目の前に転がっている、

ただ目をそらしているだけだ。

 

 

薔薇の館で会議が行われた、今日も聖はやたらにハイだ。

見た訳でも、確かめた訳でもないけれど、何があったのかはわかる。

一度私が邪魔したくらいではどうにもならないことである。

今日のお相手はどの子だったんだろう。

昨日の子だろうか、

それとも私の知らない誰かだろうか。

ふと、昨日の聖と女の子が抱き合っているシーンが思い出された。

そして、その女の子の顔が見覚えのある自分の顔に変わる…

「馬鹿…」

自分の空想に自己嫌悪する。小さく自分を罵倒した。

「お姉さま、私今日は早めに失礼したいのですが…」

愛しい妹が声をかけてくれる。

彼女ならこんな気持ちで悩むことは無いのだろう。

誰よりも清廉な世界に生きる祥子は、美しい。

「あぁ、ごめんなさい。帰ってかまわないわ。あら、黄薔薇さまは?」

「令とふたり、残り少ない姉妹水入らずを楽しむそうです」

「なるほどね」

江利子の妹、支倉令の妹は常々彼女から名前を聞いている島津由乃とい

う彼女の従姉妹で決まりらしい。昔からの約束、と彼女は嬉しそうに笑

う。そこには江利子が嫉妬するほどの絆があった。

そんな確かなものがあるふたり。

まるで正反対の私と…聖。

「それではお姉さま、失礼します」

「ごきげんよう、祥子」

漆黒の髪をなびかせて会議室を去っていく祥子。

あの子の前ではしっかりした私のまま、こんな自分を守りたいと思う反面、

何よりも疎んじている。

こんな情けない私を知ったら、誇り高いあの妹は私を軽蔑するだろうか。

祥子の後姿に私は心の中で謝った。

しかし、江利子と令が去り、祥子も帰ったということは…

気づいてみれば薔薇の館には私と聖だけが取り残されていた。昨日のことが

あるだけに気まずい、早く退散しよう。逃げるのは嫌だが、仕方ない。

「帰るの?」

いそいそと帰り支度を始めた私に、気だるげに顔をあげて聖が問う。

「えぇ」

私はできるだけ聖を見ないように返事をする。ちっとも急いでなんていない

のに、忙しく手を動かす。

「珍しいね」

「どういう意味?」

無視すればよかった。

とあとから思った。わざわざ話したくない相手につっこんでどうするんだろう。

「蓉子は昨日のこと、私に問いただすと思ってたよ」

聞いたって真面目に答えてなんてくれないくせに。

聞いたって…私が痛い思いをするだけじゃない…

「今日も、なんでしょう?」

あぁ、何を言ってるんだろう。

そんなことを口にして、何になるというのか。

「…何のことかわかんないな」

ほら、結局あなたはそうなのよ。私をからかって愉しむなんて…

それでも…いいのだろうか?

会話を続ける自分はそうだとしか思えない。

「見ればわかるわよ」

「そりゃこわいね」

嫌な会話。

胸が軋む、それなのに声を聞いていたいと思う自分。

「かわいそうだわ」

私はふと口にしてしまった。

一体それは誰のことだったのだろう。

「何が?」

私がのってきたと思ったのか愉しげに聖は聞き返す。

「あなたが手にかけた女の子よ」

だから、それは誰のことだろう?

他の誰でも…ない。

「手にかけたなんてまるで殺したみたい」

「一緒じゃないかしら」

「優等生の蓉子にふさわしくない、物騒な発言だね」

あなたの言葉に、何度血を流せばいいのだろう?

それ、は私だ。

「栞さんの面影を追っているだけじゃない」

 

言ってはいけない言葉だった。

直接言ってはいけないとを本能で解っていたはずなのに…

 

きっと怒鳴られる、叩かれるかもしれない。

蓉子は身が縮む思いがした。

 

しかし聖のその後の発言は全く予想外だった。

「じゃあ、蓉子が忘れさせてよ」

私は声もあげずに驚く。

今まで目をそむけてきた聖を見る。

まるで、泣き出しそうな聖。

私はゆっくりと聖に近づいていく。

「面影を感じない、蓉子が忘れさせてよ」

聖は苦しげに見えた。

いちばん叫びたい言葉は口を出ることを許されないのだろう。

その苦しさを紛らわすように、忘れさせて、と聖は言う。

私にその覚悟が無いならもう近づくな、という脅しをしているのだ。

けれど、私はもうその答えをずいぶん前から知っていた。

決心ができなかっただけ。

他の人でごまかすのなら、自分を…

プライドの無い、こんな気持ち。

「いいわ」

あなたが私を想っていないことなど知っている。

きっとこの道を選べば、もう二度と私の想いがかなう日は来ない。

けれど、私があなたにふれる機会はきっとこれしかない。

きっと……

それならば、還れないように、麗しい夢の浮橋を渡り、

一度あなたと堕ちていきたい。

 

聖は驚いた顔をしている。きっと私が怖気づくと思っていたのだろう。

「本気?」

「あなたよりはね」

きっとあなたより、ずっと本気だ。

私はさらに近づく。

 

「じゃあ、自分でタイを解いてよ」

私は止まる。

自分の意思を明確に見せてみろ、ということか。

信用がないのかしら、と思うと笑いがもれた。

「何で笑ってるのよ?」

あなたが幼稚だからとは言わないでおこう。殴られかねない。

そして私はためらいなくタイを解いた。

目に入ったのは江利子直伝のタイ結び。ごめんなさい、と江利子に

心の中で謝った。

私は聖の息がかかるほど近づく。

もうふたりの距離はほぼ0だ。

 

聖も覚悟を決めた表情で私の頬を撫でた。

もうお終い。

 

 

そして、私と聖は大事な境界線を失った。

 

 

 

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