incantation

 

 

 

「だめっ」

薔薇の館で、祐巳の声が響いた。

祐巳、由乃、志摩子の三人は薔薇の館で作業をしている。主に鉛筆で下書きした

原稿をボールペンで清書する、そして下書きを消す。ただそれだけの仕事で、三

人で和気あいあいとおしゃべりしながら、進めていた。そんな中、突然祐巳が拒

絶の言葉を口にした。

由乃と志摩子はただ唖然としている。

間違いなく、祐巳がそういう反応を返してくることを想定した会話ではなかった

祐巳はどうしようと焦った顔をしながらも、手にはしっかりと消しゴムを握り締

めている。

そう、消しゴムだ。

由乃は自分の消しゴムが見当たらなかったために、ちょうど隣に座っていた祐巳

の消しゴムを借りようとして、

「祐巳さん、ちょっと貸してね」

と声をかけながら、手を伸ばした。

しかし、祐巳はそれに対し、必死な顔で

「だ、だめ!」

と、消しゴムを自分の手の中へしまいこんでしまったのだ。

たかが消しゴムひとつ、

ましてやさしい祐巳がそのような反応を示したことの意味が、ふたりにはわから

なかった。

そして、祐巳もふたりの戸惑った視線に、自分のしたことを自覚し始めたらしい

一度握り締めた手を開いて、消しゴムを見る。そして再び消しゴムを握り、目を

ぎゅっと閉じる。その間祐巳はひとことも発することはなかった。

そして次の瞬間

ほんの一瞬

けれど強く

祐巳は、志摩子を見た。

 

「あ、あの、ごめんなさい!」

遂にパニックを起こし、祐巳はただ謝罪の言葉を残すと薔薇の館から走ってでて

いってしまった。

 

祐巳の行動の真意がわからず、固まっていたふたりは祐巳が消えたことを契機に

やっと動き出す。

「な、なんなの?祐巳さん」

由乃はまだ驚きの中で、志摩子には答えようもない問いを紡いだ。

しかし、志摩子は投げ掛けられた祐巳の視線に何かを感じていた。それは、決し

て祐巳を想う自分の錯覚ではないと確信している。

 

「由乃さん、待っててくれないかしら?私、探してくるわ」

「え?私もいく」

「もしかしたら気まずいのかもしれない…から」

これも本当。

祐巳は拒絶の言葉を口にした由乃に対して、申し訳ない気持ちを抱いているだろ

うと思う。

けれどそれ以上に志摩子は、あの視線が自分を呼んでいたと考えていた。

だから…

「だから私が行くわ、留守はお願いね」

「し、志摩子さん!」

志摩子は由乃の返事も聞かず走り出した。

どこかですきな人が私を待っていてくれている、

志摩子は焦る気持ちの裏で、堪えられない喜びの音がするのを聞く。

高鳴る心音も、君に会うまでのBGM。

 

 

「祐巳さん…」

志摩子は行き先もわからず走っていたが運よく、祐巳を見つけることができた。

古い温室に立ちつくしている。頼りなげな背中を志摩子は愛しいと思った。

志摩子のつぶやきに、祐巳は振り返る。

「し、志摩子さん…」

何と言えばいいのかわからないのだろう、祐巳は志摩子の名を呼んで、ただそれ

だけで黙ってしまった。

「どうしたの?祐巳さん」

このまま何も聞かずに戻ろうかとも思ったが、志摩子はもう少し踏み込んでみる

ことにした。自分に関係あるとするなら…聞いておきたい。

祐巳は答えるのを迷っているようで、言葉を幾度も飲み込んでいた。

突破口を開けないものかと、志摩子は再び祐巳に聞く。

「ねぇ、その消しゴム…もしかして」

と志摩子が言うと

「志摩子さん、覚えてるの?」

祐巳は驚いた顔で聞いてくる。

何のことかわからない、けれどやはり自分と関係あるらしい。志摩子はそれに乗

ってみることにした。

「えぇ、見せてくれない?」

祐巳は遠慮がちに手を開いた。そこで、志摩子は初めて気付いた。

「これ、私が祐巳さんにあげた…」

そう、祐巳が以前定期試験の時に消しゴムを忘れ、ちょうと未使用の消しゴムを

持っていた志摩子はそれをあげたのだ。

かわいそうなくらいに混乱していた祐巳を志摩子は放っておけなかった。その当

時は今ほど親しかったわけではなかったのだが…

祐巳の手元に自分のものがあったことは、なんだか嬉しかった。

しかし、それを何故祐巳は貸さず、持ったまま走り去ったりしたのだろうか。

「おまじない…なの」

祐巳は脈絡無い単語を持ち出した。志摩子は訳がわからない。

「使い切るまで自分以外の人に使わせたらだめっていう…」

なるほど。

しかしそんなに必死になるような願いごとがあるのか、とも思う。

「戻らなきゃね、由乃さんに謝る」

祐巳は温室を出ていこうとする。

拍子抜けしてしまう。消しゴムの元の持ち主であるというだけの理由で、あんな

視線で呼ばれたのだとしたら何だかさみしいと志摩子は思った。

「志摩子さーん、ありがとね」

祐巳は、にこにこと笑いながら温室の出口で御礼を言う。

それを見て「もういいわ」と思える自分はやっぱり祐巳のことがすきなんだろう

と思う。

祐巳は消しゴムを持った方の手を、志摩子に向かって振っている。

と、案の定祐巳の手から消しゴムがぽとりと落ちて、ころころと志摩子の方へ転

がって来る。

「あ!」

祐巳は自分の手を見て慌てている。

志摩子は自分の横を通過した消しゴムが停まったところで、つかもうとした。

そこで志摩子はカバーがずれたところから、文字が見えることに気付いた。すっ

とカバーをずらすと

『藤堂志摩子』

と祐巳の字で、書かれているのがわかる。祐巳が背後から近寄ってくるのを感じ

、本能的にカバーを戻した。

はい、と志摩子が手渡すと祐巳はほっとしたような顔をした。志摩子は祐巳に背

を向けたまま聞いた。

「ねぇ、祐巳さん。それはどういうおまじないなの?」

しばらくの沈黙。

「うーんとね、思いが通じるおまじない…かな?」

ちょっと恥じらうような口調で祐巳は答えた。

 

振り向いて、祐巳を見た。志摩子は極上の微笑みを浮かべている。少しだけ朱色

の射した頬。

 

 

大好きな、大好きな

あなた。

おまじないなんて

なくっても

わたしはあなたのもの。

 

 

 

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