天使のつかまえかた

 

 

 

「祐巳さん……いっしょに逃げて……」

 

目の前にたたずむ白い天使は差し込む光を受けて、より白くはかなく輝いている。

消滅を予感させる淡い光。古い建物だからか、どうしても舞ってしまう埃が演出

に感じる。ふわふわ、きらきら。

逆光でよく見えない彼女は今どんな顔をしているんだろう。

祐巳は告げられた言葉の意味を図りかねている。

一緒に逃げて……

なんて答えるのが正解なんだろう。

 

「志摩子さん……」

 

祐巳は答えを先のばしにした。

 

「私のことすき?」

 

志摩子さんはそんなことを聞く。

「すきだよ」

 

祐巳は階段の踊り場で光を受ける志摩子にちかづいていく。階段を昇る足が震え

て仕方ない。

 

「もう山百合会なんてどうでもいいの」

「志摩子さん……」

 

志摩子さんの言葉に足が止まる。確かな返答が見つからない祐巳は足を止めざる

をえない。

 

「どうして……そんなこと言うの?」

「私はあなたが、祐巳さんがいてくれたらそれでいいから」

 

本当に?

そう聞けなかったのは、まだ光が彼女の顔を隠すから。まるで白昼夢のよう、現

実感が無い。彼女がそんなことを口にするなんて。

いや、彼女はずっと逃げたがっていたのかもしれない。対立候補の存在を知った

時から。

 

「逃げても、いいよ」

 

祐巳は自分の言葉に驚いていた。自分がこんなことを口にする日が来るなんて、

予想できたはずがない。

 

「白薔薇のつぼみじゃない、ただの藤堂志摩子と」

 

祐巳は再び階段を昇りはじめる。

 

「紅薔薇のつぼみの妹じゃない、ただの福沢祐巳になって」

 

そんなことが可能なのかなんて祐巳にはわからない、けれど今はそれを言うしか

ない。

 

「ふたりだけで、ずっと……」

 

志摩子さんの表情が初めてきちんと見えた。彼女はとても驚いた顔をしている。

きっと祐巳がそんなことを言いだすとは思っていなかったのだろう。

 

「そんなこと祐巳さんにできるわけないわ」

 

志摩子が口にしたのはとても辛辣な言葉だった。

祐巳は胸が痛む。けれど顔には出さない。百面相の自分が今ほど嫌だったことは

ない気がする。志摩子さんはうつむいたままで、距離を縮めるとその肩が小さく

震えていた。祐巳は最後の段を踏みしめると、志摩子の前に立つ。そしてその白

い頬に触れた。弾かれたように反応した志摩子は顔をあげ、怯えたような驚いた

顔で祐巳を見ている。

 

「できるよ」

 

祐巳は今いちばん自分の中で大人びた声を使うよう努めた。信じてほしい、祐巳

の想いを。

志摩子さんは目を見開いた。かすかに長いまつげは水気を帯びている。

 

「志摩子さんとならどこへでも逃げるよ」

「うそ……」

「ほんとだよ」

「うそ……よ」

「ほんとだってば」

 

まばたきさえせずに祐巳を見つめたまま、うわごとのようにうそだとつぶやく。

 

「ほんとだとしてもちがうわ」

「どういう意味?」

 

志摩子さんは一度瞳を閉じて、祐巳に諦めたような笑顔を見せた。そして次の瞬

間、時が志摩子によって止められる、ふれあう唇はスイッチ。ふわふわ、きらき

らと舞う埃の動きがやたらとゆっくりと目に映る。体温が上昇して、火照る肌は

一緒。立ち上る甘い香は現実感を奪っていった。

 

「こんなきもち、あなたは知らないでしょう?」

 

志摩子は自嘲的な笑みを浮かべて、まだ潤いの残る祐巳の唇を拭う。撫でたその

指先が、ひかりをまとって輝く。

 

「志摩子さんこそわかってない」

 

祐巳は志摩子の手をとる。しゃらりと音を立てて、袖口から覗くのはロザリオ。

 

「これを貰う時、志摩子さん悩まなかったの?」

「………悩んだわ」

「悩んだのは何故?」

「…………」

「大切だから悩んだじゃないの?」

「…………」

「この先にいる白薔薇さま、そして山百合会の人たちがついてくるってわかって

 いたから悩んだんでしょう?欲しいと思ったんでしょう?」

「祐巳さん……」

「それでも逃げたいの?なくしちゃってもいいの?」

 

沈痛な表情で志摩子さんは口をつぐんでいた。

 

「私、志摩子さんのことすきだよ」

 

祐巳が軽く肩に触れると、まるで志摩子さんは人形のように膝を折った。祐巳を

見上げる瞳は大粒の涙をはらんでいる。たぶん、もう答えはでた。

 

「逃げたりしなくたって、周りにどれだけの人がいたって、私と志摩子さんは一

 緒だよ」

 

許容量を越えた涙がこぼれおちていく。志摩子は祐巳の腰に腕を回して、すがり

つくように抱きついた。

 

「だから、ここにいよう?一緒にがんばろうよ」

 

祐巳はできるだけやさしく、言い聞かすように志摩子に告げた。だって志摩子さ

んはもっと頑張りたいはずなのだ、山百合会にいたいはずなのだ。ただ少し弱気

になっているだけ。

 

「ありがとう、祐巳さん」

 

ちいさくつぶやいた志摩子さんの声に、祐巳は彼女の柔らかな髪をすいて応えた。

あの天使のように消えてしまいそうな志摩子さんはもういない。ここにいるのは

いつもの志摩子さん。

 

かの昔天女の羽衣を奪ったおろかな人間がいた。

どうしてもその天女が欲しくて、どうしようもなかったから。

けれど、もしかしたら、それは天女も同じだったのかもしれない。

人がそっと触れて、抱きしめたら、

もっとちがう未来があったかもしれない。

ここだよ、と優しく語りかけていたなら。

 

だから私は、あなたに寄り添っていたい。いつもどんなときも。

 

ねぇ、志摩子さん。あなたがどんなものを抱えているかまだわからないけれど。

確かな居場所で、ただ安らかに、どうか今だけは。

 

 

 

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